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「長野です」長野海星(ポルトガル語科・1年)

東京外国語大学国際社会学部1年イベリア科ポルトガル語専攻長野海星です。


今回は自分の生い立ちについて話させていただきます。


自分は奈良県奈良市で出産されました。


すぐに川崎→八王子と移動しました。

当時3歳でした。


小学校までの記憶はほぼないですが空き地で頭からコケてクソ痛かったのは覚えてます。

そこで何か自分の脳に変化が起きたのではないかと考えてます。


小学校は八王子みなみ野小学校で生活していました。足が早かったため結構良い感じにいじめられず伸び伸び生きてました。


小学生3年生のときに中国の上海での転勤の話を両親からされたときは、中国が危ない国だと思っていたので泣きました。けど行きました。


小学校3年の2学期からの渡航だったので一学期の最後にクラスでお別れ会をしてくれました。そのとき幼なじみが大体3人いて(男2人と美少女1人)、美少女が手紙を間接的に(みんなの寄せ書きと一緒に)提供してくれたのですが、小学校4年のときに僕の幼なじみ(男)が長崎に行くとなったとき、美少女が泣いて手紙を幼なじみに渡したと後々知って幼なじみを一時期恨みました。(その美少女とはそのときからほぼ1回も喋ってない)


In China

結構日本人とリッチな中国人が住む集合マンションに住んでいて(2号館の802だったと思う)

学校はバスで行きました。


サッカーは一応年長ぐらいから触りだしたのですが、中国では中国に住む日本人サッカーチームに所属していました。足が早かったので結構点を取っていました。(このときから守備をした記憶がない)


時が経つにつれて中国内で国際試合みたいなのがあって、中国内の日本代表になりました。

結果はボロ負けでドイツとかフランスの試合前にする旗交換(?)みたいなやつのじゃんけん大会に全身全霊をかけたのを覚えてます。結果は全負けでした。


で日本に小学校6年の時帰りました。


そのとき地元のサッカーチームに入って

フォワードしてました。


中学に入るとクソはまることを見つけてサッカーに対するバイブスは2/100ぐらいでした。

なので中学のサッカー部週一、クラブチームを週2で行って舐め腐ってました。徐々に人間として退化していき、夜中の4じまで友達と隠れてゲームしたり、塾をサボったり、授業はほとんど寝てたりしました。こんな生活をしていると陰キャになり、足も何故か遅くなり、学力も下から数える方が早いくらい馬鹿でした。ちなみに中学校のサッカー部は週一でいってたが、なぜかスタメンで起用されていて、サッカーのクラブチームは14人メンバーいて2人キーパーなのにベンチでした。


高校受験のときには兄が八王子○高校で俺と兄の学力に差はないだろうと過信して受けたら受験全落ちして自分を救ってくれた桜美林高校に入学しました。


In桜美林

高一はコロナで舐め腐ってました。部活は新入生は家が近い人は来いみたいな感じだったので行かなくてええやんって思ってほとんど行ってませんでした。ここでまた陰キャ度に加速がつきました。すると高二になると部活が本格的にはじまり先生のバイブスに圧倒されました。自分は陰キャだったので同じような仲間がいて、そいつは部活より勉強のやつでした。そいつに影響されて勉強はちょっとしてました。けど真剣に取り組む部員を見てると俺はこんなんでいいんかとなり、一人自問自答し始めました。そこから陰キャ界隈と距離をおくようになりました。するとサッカーを真剣にやるようになり自信がついてきてなんか彼女ができたりしました。高校3年のときに受験勉強でやめるかやめないか論争が起きた時は、富澤大智ぐらいのバイブスで部長の次にやってやるよと部活を選手権までやることを決意しました。選手権は都大会まで行けなかったけど俺はサッカーに救われたと思いました。


ちなみに東京外国語大学を目指したのは高校2年生の3学期で、進路調査で期限忘れて出さなかったら担任にぶちぎれられて適当に早稲田って書いて理由なんも書かなかったらまたぶちぎれられて、家で自問自答して俺は日本で人生終わっていいんかってなって東京外国語大学を目指しました。国語が2次試験にないからっていうのが50%ぐらいですが。


最後に東京外国語大学サッカー部に入った理由は結構まじでなにすればいいのかわからないから入りました。けど、先輩たちのバイブスを感じとって今では頑張ろうというマインドを持って取り組んでます。これからもこんな僕ですが、暖かく見守ってください。

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